逆風吹く餅の業界と
かえってきた3代目
約350年前、現在の入善町の開拓のために移住してきた数十の家庭で食べられはじめたと伝わる「芋かいもち」。当時は、今ほど作物も豊かではなく、里芋と米をこねて餅を作って食べていたそうだ。
雅之さん「昭和の時代には現在の黒部市を中心に下新川群のあちこちで、御祝いごとや畑仕事の休憩の時などに芋かいもちが食べられていました。おばあちゃんが作ってくれた芋かいもちを子どもたち、家族や仲間で輪になって笑顔で食べる風景があったんですね。窪田家は黒部市の農家の血筋。芋かいもちの創業者である私の父(祐司さんの祖父)が小さなころに食べていたおばあちゃんの思い出の味でもあります。」

▲調理場での凛とした姿から一変、優しい父としての顔も印象的な窪田雅之社長。
店名の「餅屋源七」の由来は、創業者(佑司さんの祖父)のさらに4代前の祖先で、現在も農業を営む窪田本家の初代当主・窪田源七から来ている。窪田本家では農家として「源七」という屋号を代々引き継いでおり、創業者が分家して餅屋をはじめる際、ルーツを大切にする意味も込めて「餅屋の」源七としたそうだ。
雅之さん「餅生地に使用する原材料の種類は里芋から長芋に変わり、現在は黒部産の丸芋も一部使用するなどと、時代にあわせて変化してきました。商売する場所や商品も変わっていくかもしれないけれど、商品に込められた思いの部分・商売の原点はやっぱりご先祖様あってのもの。常々感謝の気持ちがあります。」

▲芋かいもちを包む作業をはじめ、商品づくりはほぼ全て緻密な手作業で行なわれる。
餅屋源七の商品は芋かいもちだけでなく、おこわや赤飯、五平餅、醤油餅やよもぎ餅、正月や時節の餅なども販売する。どれも美味しいと評判だが、今は餅屋業全体が逆風の状態にあるという。
雅之さん「これまで魚津の地域に住む皆様はもちろん、立山黒部アルペンルートや魚津金太郎温泉に訪れた観光客にも地元の菓子として親しんでいただいてきました。かつては全国の百貨店で開催される物産展などにも呼んでいただき、日本中を飛び回っていた時代もありました。しかし経済の衰退や人口減少、洋菓子の隆盛も相まって、創業時は魚津市だけで20軒以上あった餅屋は現在4軒まで減ってしまいました。」
その衰退の勢いはゆるやかではなく、かなり厳しいものだと雅之さんは話す。跡継ぎ問題で世代交代が行えず、廃業となる場合も多いそうだ。しかし「餅屋源七」には3代目の祐司さんが20代で後継者として帰ってきた。
雅之さん「一度は出て行った息子が帰ってきてくれたおかげで、会社として若返りができました。魚津で暮らす方々、客層全体も世代交代がおきており、餅を日常的に食べる風習が年々薄まる中で、祐司の発想や行動は斬新さも感じてワクワクするものがありますね。」
祐司さん「帰ってきて3年以上経ちますが、技術の面では父や母には到底追いつけません。例えば父や母は素早い作業の中、手の感触だけで機械のように精密に、餅生地の分量を測ることができるんですよ。ひとつひとつの作業の速度や正確さは、どれをとっても一朝一夕では身に付かない。技術習得には修行が必要ですが、もちの文化をつなげていくために今自分ができることを主体的に実行していけたらと思っています。」
これからの「格好いい」を
餅屋として、自らの手で
祐司さんは3人兄弟の末っ子として生まれた。雅之さんによると、はねかえりが強い時代もあったが、小さいころからアルバイトリーダーのようによく働く子どもだったそうだ。
祐司さん「2011年、20歳の時に3年たったら帰ってこようというつもりで家を出ました。両親はもう帰らないと心配したかもしれませんが(笑)。洋服が好きだったこともあり、餅屋になる前に自分と近い世代が好むカルチャーや暮らしのあり方を知ろうと金沢の服屋で働き始めました。家を出た当時は全然お金がなくて、暮らすにも苦労したこともありましたが、今となってはいい思い出ですね。」

▲センスの良さを端々に感じる祐司さん。ちなみに奥様はアクセサリーの人気作家。
祐司さんが働き始めた服屋は全国に店舗がある、若者向けのセレクトショップ。売り場づくりや接客方法など、自らのアイディアを次々と店に提案し、責任ある役割を任せてもらえるようになっていった。
祐司さん「金沢で店長になり、次は神戸店へ。店舗の規模も、任せてもらえる役割も大きくなり、スタッフの管理などの仕事も増えました。さまざまなチャレンジをさせてもらったことが基礎となり、今の自分の仕事のスタイルを確立させたように思います。」
そして2015年、九州の大型店へ異動の話が浮上した際、悩んだ末に魚津に戻ることを決意した。
祐司さん「ある時から、服屋の仕事は『海外で生まれたカルチャーを売る』側面が強いと感じるようになりました。自分は色々と模索していく中で、自らの手で新しい文化を生み出していきたいという欲求があることに気づいたんです。音楽でいうとパンクロックの成り立ちと同じように、反骨精神のような物をもって自己表現したいタイプだと自己分析しています(笑)」
そんな中、自分のアイデンティティである、先祖の思いを引き継いだ『餅屋』であることを大事にしていこうと考えた。
祐司さん「これから消えていくかもしれない『餅文化』の状況をひっくり返そう、という野望みたいなものがあります。例えば職場として『餅屋なんてイマドキじゃない』と特に若者は思うかもしれないけれど、そんな考えこそイマドキじゃないですよね。職業にかっこいい、かっこ悪いはないと思っていて、商品でもなんでも『かっこいいは自分で作るものだ』という気概で頑張りたいです。」

▲テキパキと働く雅之さん(左)と祐司さん(右)はまさに職人。
自分たちの思いを
表現すること
祐司さんは富山に戻ってからこれまで、日々餅屋として足下を見つめなおし、そしてこれからの自らの役割を模索してきた。
祐司さん「毎日の餅作りはもちろんですが、時々尊敬している米農家で手伝わせてもらったりもしてきました。源七がこだわってきた地元の原材料のことや、それを作ってくださる農家の方々がどんな風に働き暮らしているのか知りたいと思って。新しいことをはじめるとしても、芋かいもちをはじめとしたさまざまな商品を一番おいしい状態で作り続けられることは大前提です。」

▲左から醤油餅、バイ貝のおこわ、五平餅。芋かいもち以外の定番品も全て手作りで、素材にもこだわる。
その上で、餅を食べる事がこれまでの世代よりも遠い存在となっている層を中心に、新たな顧客を開拓するための活動も行なってきたという。
祐司さん「商品のクオリティが高くても、餅を食べる人自体が少なくなれば、業界全体が体力勝負になってしまいます。現在のファミリー層や10代〜20代の暮らしにどうすれば餅がもっと馴染むか、いろいろと試していますがなかなか難しいですね。例えば人気のマルシェイベントに出店して五平餅を販売することもその一つ。いわゆる昔ながらのものだけでなく、たれの味付けを現代風にアレンジして提案しています。」
商品自体の開発はもちろん、洋服屋の経験を活かし、立ち振る舞いや服装、売り場の見せ方なども工夫を重ねる。SOGAWA BASEではその経験を活かしながら、新しく独自に開発した『もちもなか』をメインの商品とすることを決めた。
祐司さん「もちもなかは芋かいもちの生地をベースに、様々な種類の一捻り加えた餡やタレをまぶし、サクサクのもなかでサンドしました。餡は例えば、日本酒がふわりと香る白餡、紅糀を混ぜた紅餡、胡麻がたっぷりと香るみたらし餡、竹炭を使った黒い餡など。サクサクの中にあるフワモチッとした食感、色とりどりの見た目、こだわりの甘みにいい香りも加わった味わいと、五感で楽しんでいただけることを目指しています。」

▲お茶と合わせて楽しむのがオススメのもちもなか。商品はインスタグラムからぜひチェックを。
すでに出来上がった文化に対して商品を提案するのではなく、まずは「もちもなかを食べてみたい」と御客様に手にとっていただくことから、日常生活のシーンに餅を取り入れてもらいたいという。
祐司さん「例えば、誕生日祝いには僕でもやっぱりケーキが食べたい(笑)。そこにお菓子としての餅を無理矢理ねじ込むことはできないと思うんです。そうではなくて、若い人でも『今日はもちもなかがあるから、家族や仲間とお茶でも淹れて一服しようかな』という行動につながるような事になれば嬉しいなと。芋かいもちはもともと、そういうシーンを生むようなお菓子だったと思っています。」
もちもなかをきっかけに、人々の行動が起きる。ちょっとした会話やホッとするひとときがそこかしこに生まれるようにと願いを込めた。そしていつしか芋かいもちを食べることが、当たり前になっていくように。
祐司さん「SOGAWA BASEの店舗はライブ感のある売り場も見せ所のひとつです。たまにはイベントで餅つきをすることもあるかもしれません(笑)。そういう意味では、店も自己表現をする場の一つ。ジャンルは問わず、自分で表現活動を行っている人と働きたいと思っています。一緒にこれまでの餅の常識を覆し、あたらしい文化を作っていきましょう。」

▲つきたての餅の生地は可愛らしいフォルムをしている。餅づくりを見るのも楽しい。